4.城跡めぐりと山歩き

21.100名城_9城(2024.8.11)


2024年8月10日からお盆の3連休で渋滞の真っ只中の予想。

 2泊3日で実家の岐阜を目指し、途中の日本100名城と続日本100名城のスタンプを集めます。中部地方を中心に9城をまわりました。


1日目は、苗木城、岩村城 岐阜の実家 (岐阜宿泊)

2日目は、大垣城、美濃金山城、犬山城、小牧山城 (岡崎宿泊)

3日めは、岡崎城、古宮城、長篠城、吉田城 


8月9日に神奈川県厚木付近で発生した地震により、東名高速が一時通行止めになり、8月10日の出発は、中央道で行くことに変更して自動車で渋滞覚悟で5時に出発したら、ほぼ渋滞なしで行けました。お盆のど真ん中なのに。。。

走行距離は、939Kmでした。



(1)中央道は順調 
 日本100名城のガイドブックと
続日本100名城のガイドブックを持
って出発!! 
自宅を5時出発。
八王子ICから中央道を走り、岐阜
県の土岐JCTで、東海環状自動
車道に入り関ICで降りると岐阜市
には近いです。
一宮JCTの渋滞も回避できます。
 

(2)苗木城
天守閣の岩盤と岩石が一体化した石垣は見ごたえ満点でした。



(3)苗木城
鎌倉時代初期に岩村城を本拠地として恵那郡を統治した地頭遠山氏の初代遠山景朝の長男遠山景村が統治し始める。
天正2年(1574年)2月、武田勝頼が東美濃に侵攻し、先ず高山城、苗木城を落とし、更に支城16箇所を全て落とす。
天正3年(1575年)、織田信忠が岩村城を落とし、東濃諸城を奪還する。慶長5年(1600年)遠山友政は徳川家康の命を受け苗木城を攻略し、徳川家康から苗木領を安堵され、後に苗木藩が成立する。 それ以降遠山氏の所領となる
(4)岩村城
岩村城は、大和の高取城(奈良県)備中の松山城(岡山県)と並ぶ日本三大山城の一つに数えられる名城。
霧の湧き易い気象までも城造りに活かされており、別名「霧ヶ城」ともよばれています。



(5)岩村城の本丸
鎌倉幕府御家人の遠山氏宗家の岩村遠山氏が
鎌倉時代初期に築いたとされ、別名「霧ヶ城」とも呼ばれた。
戦国時代末期には織田氏と武田氏の争奪戦に巻き込まれた。江戸時代には岩村藩の城となった。

(6)岩村城
信長が武田攻めで一泊しているあいだに武田勝頼の自刃の知らせをこの城で聞く。



(7)焼肉 たなかや 
ホテルの近くで、やっと飛騨牛を食べる事ができました。
妻から飛騨牛をたべたことがないと、この何十年間言われ続けやっと実現しました。


(8)2日目
大垣市内の朝食
モーニングで500円でした。
「しょぱん」というお店。 
朝8時ぐらいでしたが、家族7人で来ている人もおり、混雑していました。
パンもコーヒーも値段も美味しかったです。



(9)大垣城
大垣城(おおがきじょう)は、日本の平城。麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう:大きく立派な城)とも呼ばれる。
関ケ原の戦いでは、石田三成の居城となった。
1649年(慶安2年)、 戸田氏鉄の代の改築によって明治に至る姿となった。 続く





(10)大垣城
戸田 氏鉄(とだ うじかね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。徳川氏の家臣。大垣藩の礎を築いた。開発により多くの遺構は失われたが、本丸の石垣および水門川として外堀の一部が残る。1936年(昭和11年)に天守等が国宝(旧国宝)に指定された。しかし1945年(昭和20年)7月29日の大垣空襲により天守や艮櫓などが焼失し再建築された。

(11)みずまんじゅう
金蝶園の水まんじゅうは、「水の都」大垣の地下水をふんだんに使った郷土の代表銘菓です。
大垣城から歩いて3分ぐらいの場所。
あっさりとした甘味と、ほんのりと酒の香りがするこの饅頭。
1個150円で妻は、2個も食べていた。

(12)美濃金山城
 クマ出没ではなく、いのしし出没。日本の城(山城)。
美濃金山城は1537年(天文6年)、斎藤正義が築城したのが最初です。その後、織田信長が森可成にこの城を与えた際に「金山城」と改名しました。
信長とともに本能寺で討たれた森蘭丸はこの城で生誕しています。

(13)美濃金山城
  天守閣跡からの風景

(14)美濃金山城


(15)国宝犬山城
 大手門
「犬山城は、尾張国と美濃国の境にあった日本の平山城。
天守のみが現存し江戸時代までに建造された「現存12天守」の一つである。また天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城・松本城・彦根城・松江城)。その犬山城の最大の魅力は、日本最古の国宝天守。続く

(16)国宝犬山城
 1537年、織田信長の叔父・信康によって築かれた犬山城。
信長・秀吉・家康は、この城を手にしたことで、天下人への道を切りひらきました。
続く

(17)国宝犬山城
天正12年(1584年) - 小牧・長久手の戦いでは、信雄方と見られていた大垣城主・池田恒興が突如奇襲をかけ、
信雄方から奪取する。これにより、犬山城は尾張国における西軍の橋頭堡となり、
さらに羽柴秀吉は本陣を敷いて小牧山城の徳川家康と対峙した。

(18)小牧山城
 小牧山城の歴史は、永禄6(1563)年に清須から居城を移した織田信長によって、
小牧山に城が築かれたことから始まります。
小牧山城は、山頂に石垣が築かれるなど、石を多用する画期的な城でした。
信長は、小牧山城を築くのと同時に、城の南側に城下町の整備をしました。

(19)小牧山城
清須からの移転
張一国を統一した織田家の統領信長は、「美濃を攻める拠点が必要だ」
清洲城が平城であったこと、南に位置し距離的に遠いことから、
信長は、最初小牧山より北方の犬山市の二ノ宮に城を築き移転すると宣言していたからです。
家臣達はその引っ越しに「難儀の仕合なりと上下迷惑大形」と反対しました。
信長は頃あいを見計らい、改めて移転先を小牧山と表明。
清洲より近くなったことを受け、反対が無くなり、
小牧山への移転がスムーズにいったことが「信長公記」(首巻)には記されています。
  

(20)小牧山城
北は、東美濃、西は、岐阜城、南は、清州、東は三河を一望できる場所を選ぶ信長は素晴らしい。石垣も3層として、今までは、土塁を積み上げていたが、信長の時代からから石垣を積み始めている。信長の最初の城づくり。

(21)岡崎城
 岡崎城」は、戦国大名として名を馳せ天下統一を果たした
江戸幕府の初代将軍「徳川家康」が生まれた平山城です。別名、龍城。




(22)岡崎城
 八丁味噌の本場 
「家康公遺言碑
江戸幕府を開き、豊臣に変わる徳川政権を樹立した家康公が、自分の跡継ぎに遺した言葉です。将軍の政道が理に適わず民が苦労しているようならば、政権は他に移るべきである。政権が他家に移っても民が幸せならば、本意であり恨みに思うことはないといった意味の言葉が刻まれています。

(23)古宮城

(1571年)に武田信玄が馬場信春に命じて築城させたとある。
古宮城の地は街道上の要衝に立地し、当時武田氏が抗争していた三河の徳川家康攻略の
拠点として築城されたと考えられている。



(24)林の中で堀が残っているだけ

(25)長篠城の全体マップ
長篠城(ながしのじょう)は、特に天正3年(1575年)の長篠の戦いに先立つ長篠城をめぐる攻防戦で知られる。
天正3年5月21日(1575年6月29日)、父・信玄の跡を継ぐことになった武田勝頼が1万5千の兵を率いて長篠城を取込んだことによって長篠の戦いが始まった。決戦地が設楽原(設楽ヶ原、したらがはら)および有海原(あるみ原)(『藩翰譜』・『信長公記』)だったため、長篠・設楽ヶ原の戦い(ながしの・したらがはらのたたかい)と記す場合がある。

(26)長篠城の本丸跡

(27)鳥居すねえもん
家臣である鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)を密使として放ち、約65km離れた岡崎城の家康へ緊急事態を訴えて、援軍を要請させることにした。
この下は急な崖で、対岸50メートル先には、すねえもんの磔ばしょが見える。50メートル先なので声も聞こえる距離です。

(28)馬防柵
勝敗の決め手となったのは馬防柵でした。設楽原の中央を流れる連吾川沿いに全長2キロメートル、
三重で作られていました。この材料である丸太を岐阜や岡崎から連合軍の兵一人一人が1本ずつ運んできたと伝えられています。




(29)吉田城の全体マップ
v吉田城(よしだじょう)は、(現在の愛知県豊橋市今橋町、豊橋公園内)にあった日本の城。戦国時代の16世紀初頭にその前身が築城され、16世紀末に大改築が行われた。
戦国時代には三河支配の重要拠点の1つとして機能し、江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たした。
明治維新後に吉田藩から豊橋藩に改名されたことに伴い豊橋城とも呼ばれた。

(30)吉田城の鉄櫓

(31)吉田城の鉄櫓
池田輝政は吉田城および城下町の大改築や吉田大橋(豊橋)の架け替えを行った。
整備は11年間にわたって行われたが、関ヶ原の戦いの翌年慶長6年(1601年)に輝政は播州・姫路に移封された。

(32)浜名湖のうな丼とひつまぶし

ひつまぶし3,000円 
味は、そこそこですが、、、、、
浜名湖の横で景色が良かった。

(33)帰りの旧東名からの富士山
j自動車からきれいに撮影できました。