4.城跡めぐりと山歩き

(1)福岡城 日本100名城     テスト

  @福岡県福岡市中央区城内1

  A江戸時代初頭、関ヶ原の戦いで功績のあった外様大名の黒田長政が、警固村福崎の丘陵地に築いた城。

    明治まで福岡藩黒田氏の居城となった。築城の際に、黒田家ゆかりの地である備前国の地名にちなみ福崎を「福岡」と改めた。

  B大天守、中天守、小天守が連なる巨大な天守台が築かれたが、天守が建てられたことは確認されていない。

   徳川家康への忖度をしたともいう。

(2)熊本城 

  @熊本県熊本市中央区本丸1-1

  A肥後の領主であった加藤清正が千葉城や隈本城があった茶臼山一帯に熊本城築城に着手、慶長12年(1607年)に完成した。

   その後、細川忠利が入った。 加藤清正の長男が徳川幕府から改易になったため。

  B明治6年(1873年)の廃城令で軍用地として残す存城処分となり、陸軍の部隊が置かれたが、

   天守や本丸御殿など本丸主要部は保存された。その後、明治10年(1877年)の西南戦争で本丸の大部分が焼失。

   戦後になって、熊本市は一般からの寄付も募り天守、平櫓、塀などを再建、本丸一帯を公園として整備した。


(3)大野城 日本100名城

  @福岡県太宰府市大宰府字岩谷1790-6

  A朝鮮半島で起こった白村江の戦いで敗れた大和朝廷が約1300年前、九州に築いた砦のうちの一つ、大宰府の北側の守りとして

   大野山に築かれた。山の尾根に土塁を巡らし、谷を石塁(せきるい=石だけを積み上げたもの)で塞ぎ、城壁を築いている。

   百済からの渡来人の指導でつくられた古代朝鮮式山城で、日本一の規模をほこる古代山城(こだいさんじょう)である。

  B7世紀の話です。


(1)福岡城の外堀






(2)福岡城の天守台
外人が多い




(3)福岡城
大濠公園側にあります。

(4)くまモン
熊本に1兆5000億円の経済効果をもたらしている野生のクマ。
そこら中にいます。

(5)熊本駅
 とてもきれいな駅です。 となりにはユニクロも入っていました。

(6)数寄屋丸二階御広間
まだ一部崩落の状態でした。


(4)くまモン
石垣の工事中でした。 コンクリートの跡が痛々しい。
加藤清正の3男 忠広の時代に徳川幕府から改易になる。(加藤家二代で終了)
改易の理由は「平素の行跡正しからず」。 具体的には忠広の家臣統制が不十分であること、駿河大納言忠長と懇意であったこと、忠長を将軍にしようという文書が諸大名に送られ、各大名家が幕府に報告する中、加藤家だけ報告がなかった、などの説があります。 いずれにせよ、幕府にすれば目の上のたんこぶともいうべき加藤家を、容赦なく取り除いたということなのでしょう。

(4)大野城
大野城 心のふるさと館
最寄り駅:西鉄 春日原駅 徒歩10分
663年、同盟国関係にあった百済復興を支援するため天智天皇は朝鮮半島に軍勢を派遣するが、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れ百済は滅亡。この結果、連合軍が日本に来襲することを恐れた大和朝廷は対馬から北部九州、瀬戸内海沿岸と、朝鮮半島から大和に続く線上に様々な防衛施設をつくった。そのなかで、大野城は大宰府の北側の守りとして、四王寺山の尾根線を総延長8kmの土塁や石垣でで囲んだ古代朝鮮式山城(百済からの渡来人の指導により築かれた)である。城郭内には70棟近くの建物の礎石が残されている。

(4)大野j城
大野城 心のふるさと館