2025年9月5日 台風が静岡や東京に迫っている中、朝6:00 自宅を出発して、圏央道と関越自動車道をひたすら北上して上信越自動車道の碓井軽井沢ICで、軽井沢アウトレット→龍岡城(佐久市)で一泊。 翌日は、松代城→上田城→小諸城です。
(1)龍岡城五稜郭(たつおかじょう) 続日本100名城
@佐久市田口3000ほか
A龍岡城五稜郭は、函館五稜郭とともに日本に二つしかない星型稜堡をもつ洋式城郭です。
龍岡城は、江戸時代末期に田野口藩主 松平乗謨が元治元年(1864)に田野口藩新陣屋として着工し、慶應3年(1867)に竣工しました。
フランスのボーヴァン将軍が考案したといわれる稜堡式築城法によるもので、突角部に砲座を設け各稜堡から十字砲火をもって攻防することを目的としています。
廃藩後明治5年(1872)城は取り壊しになりましたが、堀と土塁、建物の一部「お台所」が城内に残されています。
昭和9年(1934)5月1日に国史跡として指定されています。
(2)松代城 日本100名城
@〒381-1231 長野県長野市松代町松代44
A千曲川東方にある平城で北信濃を支配するために1560年頃、武田信玄が築いた海津城が前身で、川中島の戦いの武田方の拠点。信玄の死後城主はめまぐるしく変転するが、1622年(元和8)真田信之が上田城より移り、真田氏三代幸道のとき松代城と改めたといわれる。千曲川によって形成された自然堤防の頂部(中央部)に方形の石造りの本丸を築き、土造りの二の丸・三の丸からなる。現在、本丸の太鼓門と北不明門、二の丸土塁等が整備・復元されている。
(3)上田城 日本100名城
@〒386-0026 長野県上田市二の丸
A1583年(天正11)千曲川の分流である尼ヶ淵にの河岸段丘上に真田昌幸が築いた城。城は1585年(天正13)徳川軍約7,000を迎撃し、撃退に成功。さらに、1,600年(慶長5)関ヶ原に向かう家康の三男秀忠率いる東軍38,000を3,500の兵力で迎え撃ち、秀忠軍を関ヶ原の天下分け目の決戦に遅れさせている。関ヶ原以降、徳川氏を悩ませた上田城は徹底的に破壊されたが、1622年(元和8)真田信之が松代藩へ移り、小諸藩から移った仙石忠政が埋められていた堀を掘り返すなどして再建に着手するが、ほどなく忠政が死去したため中断された。その後松平(藤井)忠周が入り幕末まで7代続いた。廃藩置県後、西櫓を残して城は解体・売却されたが、市民の力で南櫓と北櫓を買い戻し、1994年には、南櫓と北櫓の間をつなぐ東虎口櫓門と両脇の塀が復元された。
(4)小諸城(こもろ) 日本100名城
@〒384-0804 長野県小諸市丁311
A現在は、懐古園となっている。遊園地や動物園になっている。
平安末期、源義仲の挙兵に従った武将のひとり小室光兼が後に源頼朝に仕え、この地に宇頭坂城を築いたのが小諸城の起源とされる。その後南北朝時代に小室氏は衰退し、大井光忠が1487年宇頭城跡を整備し鍋蓋城を築き、その子が出城の乙女坂城を築いた。1543年武田信玄がこれを攻略し、山本勘助らに命じて鍋蓋城・乙女坂城を取り込んで拡張整備したと伝わる。豊臣政権成立後、1590年仙石久秀が城主となり礎石建物、瓦、石垣で構成された近代城郭に改修した。城は城下町より低い場所に城郭があるため「穴城」ともいわれる。天守台は織豊期の様相を残す初期の算木積が用いられ、信濃における最も古い石垣と位置づけられている。
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