2026年4月5日 愛車のプリウスで朝6:00 自宅を出発して、圏央道と中央道をひたすら西に移動。要害山城→武田氏舘→甲府城→新府城跡→蔦木宿温泉のルートです。
(1)要害山城(ようがいさんじょう) 続日本100名城
@佐山梨県甲府市上帯那町
A山梨県甲府市にある武田信虎が1520年に築いた堅固な山城です。武田氏の館(武田氏館)の背後の山頂に築かれた緊急避難用の詰城であり、信玄・勝頼三代の領国支配の拠点となった国指定史跡です。
(2)武田氏舘 (たけだしやかた) 日本100名城
@〒400-0014 山梨県甲府市古府中町2611
A武田氏三代(信虎、信玄、勝頼)の城で、甲斐源氏の流れを汲む18代当主信虎が甲斐を統一して1519年(永正16)に居宅を石和から移し、館(別名:躑躅ヶ崎館)を築いたことに始まる。また翌年には背後の山上に籠城するための詰城、要害山城を築いている。四方を水掘りと土塁で固め、周囲に曲輪を配置し、それを水掘りや空掘りでつなぎ防備を固めている。方形をなす主郭は中曲輪と東曲輪で構成されているが、現在は、武田神社となっている。
(3)甲府城(こうふじょう) 日本100名城
@〒400-0031 山梨県甲府市丸の内1-5-4
A甲府城は、武田氏滅亡後、豊臣政権の重臣浅野長政・幸長親子らによって一条小山と呼ばれる丘陵地に築かれた平山城で、武田氏館に代わる城として築城された。本丸や稲荷曲輪・数寄屋曲輪は野面積の石垣が残り天守台は江戸城・名古屋城・会津若山城につぐ巨大なもの。豊臣政権下では徳川氏を押さえる城として重視された城だが、江戸時代には、外敵の江戸侵攻を阻止する城として代々将軍家の子が城主となり引き続き重視された。その後、柳沢吉保が徳川親藩以外で初めて城主となって入城した際に、城の拡張と修築が行われ城下も整備されたが、子の吉里が大和郡山へ移された後は、幕末まで幕府の直轄領となった。1868年の戊辰戦争では新政府軍に恭順し板垣退助らは無血入城を果たした。
(4)新府城跡 (しんぷ) 続日本100名城
@〒407-0262 山梨県韮崎市中田町中條4887
A武田家最後の当主・武田勝頼公によって七里岩の台地に築城された城郭。
新府とは「新しい府中」という意味で、勝頼公が本拠を甲府市からこの地に移転を計画し、新しい府中をつくろうとしたことが窺えます。
織田・徳川軍に攻められ、築城からわずか68日という短さで自ら火を放つこととなった悲運の城とも言われている一方で、戦国武田家の集大成の城をいまに伝える良好な城跡です。
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